いままでお聞かせいただいた質問を掲載していきます。定期的に更新していきますので、どうぞご一読ください。また、聞いてみたいことがありましたら、「よろずお問い合わせ」のページから、メールをお送りください。後日、御返答させていただきます。
父と祖母の法事を一度にすませたいのですが?
本来、お二人の法事を合わせて一度にすませるということはありません。そもそも、法事とは、浄土真宗においては、残された者が、亡き方を尊く思い、敬いと感謝の心からお勤めさせていただき、そのご縁をいただいて、この私の命の意義と行先を聞かせていただくたいせつな法縁です。そのような趣旨の法事を、合わせて済ませてしまうというのは、亡き方の命と存在を軽んじる行為でありましょう。
しかしながら、昨今の事情を鑑みて、お客様をお招きし、食事や引き出物を用意するといった金銭的、時間的事情により、やむなく合わせることもあろうかと思います。
そのような時は、合わせた方の祥月命日(亡くなった月日)に、あらためてご家族だけで結構ですので、お参りしていただきたいと思います。
法事は、今ある私が、お経を拝読し、教えに出遇う場です。食事や引き出物が主役ではありませんので、金銭的に負担になるような法事は、なるべく避けたいものです。質素でも、本当に亡き方を偲び、敬い、感謝し、私の生と死を考えさせていただく仏縁として勤められることが、なによりも大切なことでしょう。
お坊さんが、肉や魚を食べていいんですか?
宗派、宗旨のそれぞれの道において、仏さまにならせていただく道順がちがいますので、仏教の全宗派をひとまとめには、お答えできませんが、浄土真宗においては、宗祖親鸞聖人より、一般的な食生活を送っております。それは、実相(物事の真実の姿)を知る仏さまから人間を見たとき、他の命を奪わずして、自らの命を長らえることはできない存在としてわが身を知らされます。ならば、様々な命をいただかなければ、生きながらえることのできない、わが身の罪の深さを知り、いただくその命の尊さを思い、感謝と懺悔の心をもって、阿弥陀如来の救いをいただくかたじけなさをかみしめていく人生へと、転換されていきます。その人生は、欲望にふりまわされ、命を「食材」と言い、口にあわなければ吐き捨てる人生ではありません。命を真正面から受け止め、欲望がすたれ、命を食す尊さと罪深さと畏れと感謝の人生です。
浄土真宗では、それらがすべて阿弥陀如来の救いのはたらきによって、知らしめられ導かれていくと教えます。つまり、日常生活が、仏道へと転ぜられていく教えです。
仏壇は、いりますか?
仏壇は、読んで字のごとく、「仏さまの壇(ご安置する場所)」ということです。つまり、人々を導き救うはたらきを持つ、真理に目覚めた方を仏と呼びますので、さまざまな仏方をご安置する壇ということです。浄土真宗では、救い主として、阿弥陀如来さまをご安置します。
一般的に、その家庭に亡くなった人がいなければ、仏壇を置かないように言われますが、よくよく考えれば、新しい家に住んでからは、亡くなった人はいないかもしれませんが、それまでに何代にもわたり、私に命をつなげてこられた方々は、亡くなっています。そういう意味でも、矛盾です。
仏壇は、本来仏教徒が、信仰の対象である仏様をご安置するために置くものです。キリスト教で言えば、十字架をかかげていますが、それと同じですね。ですので、それぞれの人が信仰する、救い主の仏様をご安置し、日々、礼拝(らいはい)し、はたらきに接してゆく場であり、家庭の中心であるべき存在です。
ですので、家をかまえれば、仏教徒であれば当然、仏壇はご安置するべきでしょう。
昨今の日本は、自分がどの道を歩んでいるのかが、不透明で、自己中心道を歩んでいるのが現実です。
私につらなる、すべてのご先祖方を敬い、尊び、感謝し、そして自己反省をする場としても、仏壇は、とても大切なはたらきを持ちます。
どうぞ、ご家庭で、子や孫に、「ありがとう」「もったいない」「もうしわけない」という、日本の大切な心を伝えるためにも、お仏壇をご安置し、仏さまをお迎えし、お参りする姿を通して、伝えていただきたいものです。
命日以外は、お勤めしてはいけないのでしょうか?
浄土真宗では、すべてのご縁を、自らが法に出遇い、お育ていただく大切な法縁といただきます。ですので、人生の折々に、どんな理由であれ、お勤めをしてはならない理由などありません。ご自分でお経をお勤めするもよし、お寺さん(お坊さん)に来ていただいて、お参りするもよし、お寺の本堂にお参りするもよし、してはいけないという制約は一切ありません。
浄土真宗は、特に、「〜をしてはならない」という、規約、罰則的なものは、ありません。「〜をしたほうが好ましい」「〜は、する必要がない」という、阿弥陀如来様の救いをいただき、お念仏申す人生においての判断はあります。しかし、もし様々な条件や、制約の結果、しなければならない状況になっても、それは救いの妨げとはならないのが、浄土真宗の特徴です。
たとえば、お葬式での喪主の立礼がそれでしょう。本来であれば、喪主は、亡き方を偲び、命と向き合う大切な儀礼の時間として、葬儀をお勤めすべきところを、お参りにこられた方への挨拶に奔走しては、本末転倒です。とはいうものの、そのような人間同士のしがらみの中で生活しているのも、また事実です。どうしても挨拶をしなければ、周りや職場の関係にひびくといった場合は、阿弥陀如来さまと、亡き方に背を向けることは避け、お参りできる位置で、ご挨拶をするように、私は勧めます。しかし、ここで誤解してはいけないのが、この判断は、すべて、阿弥陀如来の救いをいただき、感謝と懺悔の人生において、その阿弥陀如来を中心にしたものの見方でのことですから、当然、何をしてもいいという考え方にはならないと思います。
懺悔のことを、仏教では「さんげ」と読みますが、同じような意味の言葉で、慚愧「ざんぎ」という言葉があります。浄土真宗では、お念仏申し、浄土へ往生する人生の旅路における私たちの姿勢を「慚愧と歓喜の人生」と表現します。わかりやすく言えば、「もうしわけない」と「ありがたい」です。この心でもって判断されることは、おのずと理解できるのではないでしょうか。